本日もブログをご覧頂き有難うございます。
本日は「神道」について投稿したいと思います。
神道には教義はない
一般的には、神道には「教義」がありません。
しかし、「教え」たる「教義」がないという事は、「宗教」と言えるのでしょうか。
はい、「教え」がなくても、立派な日本の宗教になります。
日本は古来、自然界にあふれる現象や、「人間」という対象に対しても「畏敬の念」を感じるのであれば、これを「神」として祀り上げて来ました。
人とは「ひと」 霊(ひ)の止まる 事
御霊(みたま)と呼ばれる魂は、この万物の世界に溢れています。
すべて、このブログ中では「神事(かみごと)」と称しておりますが、この「御霊」は「人間」にも備わっています。
理由は、人間も「万物の世界」だからです。
この人間とは、つまり「霊(ひ)の止まる」場所です。
この為、人(ひと)とは「「霊(ひ)のとまる」という意味を持っています。
故に「ひと」なのです。
そして、神事の世界には「御霊」は祀り上げられてきました。
「御霊」ある全てに対して、それが「畏敬の念」を感じる存在になった時、それは「神」として祀られてきたのです。
故に、「自然界の神」や「動物の神」や「人間の神」が祀り上げられてゆきます。
だから「教義」なんて存在しない
日本人は、私達に関わる生活の中で「お付き合い」と言いましょうか、「共存関係」を「御霊」と共に過ごしてきました。
その際に「礼儀」や「お付き合いの仕方」として「信仰」が形づくられて行きます。
それは「教え」ではなく、つまり「教義」ではないのです。
「教義」がありませんので、当然「教祖」も存在しません。
さらに「布教活動」なんて行いません。
行う必要がないのです。
「お付き合い」から「教義」なんて生まれませんし、「教祖」なんてで始めたら、意味が解りません。
意味が解らないのに「布教活動」なんて出来る訳がありません。
この辺が大雑把ですが、「神道」の成り立ちです。
「祈り」の在り方も、たぶん「通常のお付き合い」から発生したもの
こんな事を書いたら怒られますが、私達が友人に対して「お願い事」を上げる時、そんな「お付き合いの気持ち」が「神道」を作り上げています。
畑で稲が「豊作」であったなら、その感謝を「神」へ返します。
そして、常に「不作」などの「悪い事」は発生しないように願うはずです。
魚が大量に捕れたなら、同じように感謝の念を現わします。
そして、常に「不作」などの「悪い事」は発生しないように願うはずです。
「お願い事」と「お祓い事」と言うのは、共に大切な事として、現在の「神道」の中で生きています。
どちらも大切な事です。
超簡単ですが、これが「神道」と「ひと」とのお付き合いの世界です。
今回は以上にしたいと思います。
最後までお付き合いいただき、有難うございました。
0 件のコメント :
コメントを投稿
注: コメントを投稿できるのは、このブログのメンバーだけです。