本日もブログをご覧頂き、有難うございます。
ベタな内容ですが、いわゆる「神社」には行かない方が良いと言う事を聞きます。
「神社」や「仏閣」に対して、そこに足を踏み入れて「不快な気分」になるなら、そこはダメです。
しかし、この「不快な気分」を感じない場合があります。
完全に人間として疲れきっている状態の時です。
実際の所、こうした人達を良く見かけます。
完全に「自己フィールド」が薄れていて、本来は「不快な場所」である事が解からない状態です。
このような状態の時には、わざわざ「神社」へ行く必要はないと思います。
まずは、「生気」を整える事が大切です。
神社には低級霊が溢れている
さて、普通の人が「低級霊」を解かるのでしょうか。
「あ、あそこに低級霊が沢山いる」なんて、解るのでしょうか。
私の意見としては「低級霊」なんて、どこにでもいます。
そんな「低級霊」に憑りつかれると言う事は、その方の「視野」が低いのです。
つまりは「ネガティブ」な「マイナス思考」なのですが、私が言えることは、つまりは「天地」と一体でないから起こる事なのです。
「天地人」のあり方
これは非常に重要な事です。
私が「私」であれる事を強く理解できているのは、この「天地人」の体感です。
(この本は「タオ」の動作による「気」の理解には最高の書籍です。)
私達は「自分という存在」のエネルギーを自然界に頼っています。
その為、「自分の視野のみ」で「生きる事」を根ざしますと「気」が枯れてゆきます。
あまりに「気」が枯れすぎますと、前回に投稿しました「権威ある人間」に支配されます。
ただ、このブログ「神事(かみごと)」とは、この世の万物の世界感を現わしています。
この「万物」の中で、「教祖」なんて小さな存在です。
自他同一
人間が「個人の視野」ばかりに陥る時、「気」は枯れ始めて「人」は離れてゆきます。
こうした状態において、まだ「個人の視野での利益」を貪り、反省を試みないで「神頼み」に走れば、その先の事は見えてきます。
さて、神社には行かない方が良いのか
私は、こうした状態の人間である時には「行けない」という回答になります。
こうした状態である時には「低級霊」も「重々しく」のしかかり、自己の魂も見えなくなり、つまりは「カカシが服をきて歩いている」ような雰囲気です。
私も自己を見失う事があり、その都度に反省をしています。
これは「自己の勝手な自信」が招く事ですが、それでも、私は次の事を忘れません。
自他同一
この「自他同一」とは、物凄い力を持った意識であり、感覚です。
私達が生活する「天」と「地」、そして育まれる「万物」と常に「一体」である事は事実です。
だから、この意識と感覚を忘れなければ、安易に「気」が枯れ行く事はないでしょう。
さて、神社には行かない方が良いのか。
行ってもいいです。
いや、私も行きたいです。
ただ、不快な場所は避けましょう。
今回は以上にしたいと思います。
最後までお付き合いいただき、有難うございました。
0 件のコメント :
コメントを投稿
注: コメントを投稿できるのは、このブログのメンバーだけです。