本日もブログをご覧頂き有難うございます。
本日は「南無阿弥陀仏(ナムアミダブツ)」について投稿したいと思います。
photo credit: Patrick Vierthaler Shorin-in 勝林院 via photopin (license)
「南無阿弥陀仏(ナムアミダブツ)」
「南無阿弥陀仏(ナムアミダブツ)」と言えば、誰でも聞いた事のあるフレーズです。
これは「仏教」で教えられている言葉です。
「阿弥陀如来」と呼ばれる「すごい神様」が仏教世界にはおられます。
一般的に「阿弥陀仏(あみだぶつ)」と言われ、「西方の極楽世界という浄土」の神様として知られています。
そんな「阿弥陀如来」の「お力」をお借りしようとする手段が、「南無阿弥陀仏(ナムアミダブツ)」になります。
「南無阿弥陀仏(ナムアミダブツ)」は「他力本願」の思想
人間には、何か目標を達成したい、努力して新たな境地を目指したいと思った時に、普通は「努力」します。
「努力」しなければ、「結果」は付いてきませんし、まず「怠け者」のような見方をされてしまいます。
ところが、人間と言う存在は「誰でも同じように努力」なんて出来ません。
そこで先人達は「自己の努力」とは別に、「他者の力による解決方法」を探るのです。
つまり、「他力本願」という思想が生まれます。
自力の道 他力の道
この2つの言葉は、仏教で見られる流れです。
「自力の道」は、一般的に「修行」による努力の結果に「自分」を省みる行為です。
ただ、誰でも「境地」に到達できる訳ではありません。
特に、異常なまでに「自己」を見つめる行為が、行われてきました。
一般的に、これを現す業が「禅」だと言えるでしょう。
「禅」は、ただ座っているだけの修業ではありません。
そこに「究極」を見る行為です。
ただ、誰でも「究極」になれるはずがありません。
そこで、過去の先人達は「自力の道」に対して「他力の道」を探りました。
それが「南無阿弥陀仏(ナムアミダブツ)」なのです。
「阿弥陀仏」の力で難問を突破
「南無阿弥陀仏(ナムアミダブツ)」と称えますと、死後は「阿弥陀如来」のお力により「極楽浄土」に生活が出来るという思想が生まれます。
これは「ふざけた事」ではありません。
心底、それは「自力の道」と同じように「他力の道」を信じる行為です。
この場合の「他力の道」が「阿弥陀仏」への帰依(従う)になります。
「阿弥陀仏」に心底帰依したならば、来世は「極楽世界」に生まれることができる。
そこで「仏(ほとけ)」になれるという事です。
この「仏(ほとけ)」になる道として「自力の道」と「他力の道」があるのですが、「阿弥陀仏」の力を借りて、自分は修行などしないが、それでも仏を目指す気持ちが「南無阿弥陀仏(ナムアミダブツ)」なのです。
「南無阿弥陀仏(ナムアミダブツ)」は「他力本願」ではありますが、一般的な「怠け者」の「他力本願」とは違います。
心底、「阿弥陀仏」の「他力」を信じて生きて行こう、そして、その先に「仏」を目指そう。
修行の形態は違いますが、こうして「仏」を目指した先人達の行いが「南無阿弥陀仏(ナムアミダブツ)」でした。
今回は以上にしたいと思います。
最後までお付き合いいただき、有難うございました。
0 件のコメント :
コメントを投稿
注: コメントを投稿できるのは、このブログのメンバーだけです。