「祈り」の本当の本質とは

こんにちは。

いつもブログをご覧いただき有難うございます。


本日は「祈り」について投稿したいと思います。






hoto credit: macwagen Prayers to Take the Sting Out via photopin (license)




「祈り」と言いますと、すぐに「神」を連想してしまいますが、「祈り」の本質は別に「神」とは関係ありません。


「祈り」は「祈り」という「力」を持った行動になります。



また、「祈り」と言いますと「他力本願」な事も連想しますが、そうではありません。



「祈り」は「祈り」という「力」を持った行動になります。

 


この「祈り」は世界共通で人間が行う行動のひとつです。




この「祈り」の際たる「力」とは、「信じた現実」「信念」が、目前に現れてくるという事です。


参考書物として、こちらの本は良書です。






(書籍 「運命好転の法則」 謝 世輝 著 )



クレイジーな事を言っていると思われるでしょうが、けっしてそんな事はありません。


「願望」に対して「信念」と「情熱」がしっかりと働きかけられれば、「願望」は現れてくるものです。




これは、本当に「自己啓発」で取り上げられる内容です。


「自分」の信念が、かならず「現実」になって現れてくるという事です。





そんな事はあり得ないと思うはずです。


ところが、世の中の成功者達は、みんな同じような感覚の中にあります。


それは「必ずできる」という信念をもっていれば、「願望」が目前に見えてくるという経験です。



間違いなく出来る 成功する




これが「完全無欠」で意識へ入り込んでいる人達は、つねに「成功」の中に生きています。


ただ、やはり私から見ても一般の人達ではありまえん。



悪く言えば「変な人達」です。


ところが、彼らには「権威」が満ちています。


その「権威」が彼らをさらに優位な立場に立たせています。



では、その「権威」を持つほどの「力」が何故にあるのか。




私が知る限りでは、やはり「とてつもない気力」を持っています。


それは、普通の人の倍以上の、それは「ドデカい気」のかたまりのようです。




つまりは「祈り」の力なのです。



神と言われる存在は、人間に対して常に「貧乏」を進め、「苦行」を進めている訳ではありません。


そうした「経験」を持っている事は尊い事です。


間違いなく、いわゆる「貨幣的」なお金に勝る「清い心」を持てるでしょう。


ただし、人間は「生活」が出来なければいけません。



その生活をする為の「資金」が必要です。



だから「祈る」のです。



完全無欠に、一心不乱にです。

自分の「願望」に対して「信念」と「情熱」をかけて、まったく世の中を疑うことなく、成る事を、ひたすら「祈る」のです。



これが「祈り」の行動であり、「力」です。



ただただ、「祈り」と「行動の実践」の中に、変化が現れてくるのです。


これも過去の先人達の奥義のひとつでしょう。



今回は以上にしたいと思います。


最後までお付き合いいただき、有難うございました。

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